持宝院のご紹介

持宝院紹介

持宝院の寺伝・歴史や宗派等のご紹介です。

開祖弘法大師 空海
宗旨真言宗
御室派
総本山京都 仁和寺
寺格別格本山
山号岩﨑山(がんきざん)
寺号本願寺
院号持宝院
札所児島四国八十八ヶ所霊場 第二十六番札所 天宝10年に配置開設
児島百番観音霊場 第六番札所 明治39年前後に配置開設
持宝院 歴史ある古寺 持宝院の歴史

歴史ある古寺、持宝院の歴史

一説によると、「巖崎山 本願寺 持宝院」の開基者は、奈良の都は平城京において、僧都であった高僧の行信僧都であると伝えられています。
この頃は、佛教における鎮護国家を目指した天平文化が花開き、行基が諸国を巡遊し、多くの寺を建立したり、社会事業に活躍をしている時代でした。

蘇我氏(蘇我稲目)が吉備白猪屯倉(きびしらいのみやけ)を設置し、その翌年に設置した児島の屯倉(みやけ)から、渡来系の氏族の阿智使主(あちのおみ)等を駆使して北上をしていったという経緯があり、また斉明天皇が白村江の戦いにおいて敗れたあとに、守りを固めるために瀬戸内の各地に城を築いていています。
その際に瀬戸内の要地であった味野の地に行信僧都が、天平時代に中央よりの要請によって、守りを固めると同時に信仰の中心とするために持宝院を建立したといわれています。

十一面観音菩薩

行信僧都が都よりこの味野の地に着いた時、十一面観音菩薩様を本尊としてお堂を立てお祀りしたのが、寺山の持宝院のはじまりであります。

天和書上によると、文亀年中の室町時代末期に中興の祖である幸信僧都によって持宝院は移築、再興されています。
この時に、白馬トンネル下にあった観音寺(後に桜大師様のお堂があった場所で、現在は小さな石の祠がある)と、味野城にあった法羅陀山地蔵院法楽寺(現在住宅地となり、旧公会堂横 に宝筐印塔一基が立っている)を持宝院に合併しています。

再開基の際、持宝院の本尊は十一面観音菩薩でしたが、法楽寺の本尊であった薬師如来に本尊の座を譲っています。

※開基については諸説あり、天和三年の書上によると鎌倉時代末期の正和年中に行信僧都が開基したとされています。
他にも、平安時代の承和年中に開基されたとされる巡拝記なども存在していることから、その真相については持宝院の長い歴史のなかで朧気となっている。

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